仕事における不幸の大半は、一度に多くのことを片付けようとすることで起こる。
急ぎのタスクを抱えている時ほど注意しなくてはいけない。同時に二つのことはできない。
一度に複数のことを行うと全てが中途半端になる。何が終わっていて、何が終わっていないのか分からなくなる。こうなると後はごまかすしかない。出来ているフリをして前に進む。問題は先送りされる。事態は見えないところで悪化していく。
最後の最後になって高い代償を支払う羽目になるのだ。
厳密に言えば「一度にひとつのことをする」ことは不可能だ。いくつかの作業は分割できない。例えば車の運転だ。周囲に気を配ると同時にアクセルを適切な力で踏み、ハンドルを操作しなくてはいけない。何かが飛び出したらブレーキを踏まなくてはいけない。
また仕事はいくらでも細分化することができる。「トマトソースのパスタを作る」という作業はトマトソースを作る作業ととパスタを茹でる作業に細分化できる。トマトソースを作る作業をさらに細分化することも可能だ。野菜を切る。肉を切る。炒める。味付けする。突きつめていけば無限に作業工程は増大していく。
そこで「一度に一つのことを行う」のではなく「一度にすることを小さく保つ」ようにする。粒度を適切なレベルに保たなくてはいけない。最適な粒度は人によって違うと思うが、なるべく細かいほうがいい。特にチームで仕事をするときは細かさの恩恵を受けるだろう。粒度が荒すぎると突発的なアクシデントや割り込み作業に対応できない。大勢で作業をしていれば、予想外の事態は必ず起こるものだ。
まずは作業を分解することから始めてみよう。練習はいつ、どこにいてもできる。家にいるなら料理、掃除、炊事、洗濯、これらの作業を分解、分類する。そしてそれらの作業に名前を付ける。作業中はつけた名前を意識する。
これだけでも仕事の質は上がるはずだ。
私たちは明日を心配し、過去を悔やむことに多大なエネルギーを費やしている。目の前で起こっていることはそっちのけで、妄想の中で壮絶な戦いを繰り広げる。
もしかしたら起こるかもしれない(そしてまずそれが起こることは無い)最悪の事態に備えて対策を練る。口論のリハーサルをする。鮮やかな毒舌で相手を言い負かす自分を思い描く。
愚かな失敗をした過去の自分を思い出して悔やむ。どうしてあんなことをしたんだろう。俺はなんて馬鹿なんだと自分を責める。時には十年以上も前の失敗を思い悩むこともある。そんなこともう貴方以外誰も気にしていない。皆自分のことで精一杯なのだ。
生産的になれるのは今を生きる瞬間だけだ。いくら妄想を繰り返しても進歩はない。同じところをぐるぐるとまわるだけで、新たな発見は何もない。あるのはアドレナリンの分泌による異常な高揚感だけだ。
今していることに集中するためには訓練が必要だ。幸いなことにこの訓練はいつでも、どこにいても出来る。車を運転しているときは運転だけに集中する。皿を洗うときは、皿を綺麗にすることだけに全神経を集中する。無用な妄想に思考エネルギーを割かない。
実際にやってみると、とても難しい訓練だということに気付くだろう。私達は注意力をひと所に集中するのが苦手だ。大好きな漫画や小説、ゲームなど、特別に興味のある事でない限り、意識はすぐに他の所に飛んでしまい、妄想を始めてしまう。一度妄想がスタートすると止めるのは至難の業だ。止まれ、止まれと念じれば念じるほど妄想は強化される。
そんなときは妄想している自分を自覚するだけでいい。心の中で「私は今妄想している」「見えない敵と戦っている」と呟いてみる。妄想している自分を責める必要はない。不思議なことに、自覚するだけで妄想は心の中から消えてしまう。
まずは5分間、妄想を止めて今を生きてみよう。それができれば大したものだ。次は10分間に挑戦してみる。それもできたら15分に挑戦する。
今していることに集中できる時間を増やしていけば、人生の質は確実に向上する。
キーボードを叩くときは呼吸を意識しよう。
息をとめてタイピングを行うとひどく緊張する。必要以上に早くキーを叩いてしまい、タイプミスが増える。そのミスをこれまた猛スピードで修正しようとして新たなミスをする―――こんなドツボにはまった事はないだろうか?僕はしょっちゅうだ。
キーボードタイプに限らず、オペレーションは少しゆっくりな方がいい。早さよりも正確さのほうが大切だ。急ぐとロクなことがない。
ITの世界において「生産性が高い」とは無駄がないということだ。単に動きが速いということではない。
板前や大工はきびきびと動くことを求められる。兵隊や消防士もすばやく動かなくてはいけない。だがプログラマーは違う。どれだけの量をこなすかより、何をするかのほうが遥かに大切だ。問題解決に関係しないことを猛烈なスピードでやり遂げたところで何の意味もないのである。一刻一秒を争うような状況においても、納得がいくまで考え抜き、正確な答えを出すことが求められる。
スピードを速くするのではなく、無駄をなくすことに労力を集中しなくてはいけないのだ。
プログラマーにとって緊張ほど生産性を妨げるものはない。緊張した状態では良いアイデアはまず出てこない。一日中頭を痛めつくして悩みぬいた問題の解決策が、帰宅途中の電車の中で浮かんでくるなんてのはざらにある話だ。緊張は思考は硬直化し、無意識下を漂っているアイデアを押さえつける。緊張していると出るものも出ないのである。
また、緊張した状態で作業を続けると簡単に疲れてしまう。プログラマーはマシンと格闘し続ける仕事だ。肉体労働者が筋肉を強化するように、プログラマーは精神力を鍛えなくてはいけない。長時間のオペレーションに耐え、ひとつの問題について集中的に考え続ける力を養わなくてはいけない。緊張をコントロールする技術を身に着けることで、精神的スタミナは確実に向上する。
呼吸を意識する習慣はオペレーション中の緊張を解きほぐすのに非常に効果的だ。呼吸を一定に保った状態で急いでタイプすることは不可能に近い。人間の身体はそういうふうにできている。
この性質を利用しない手はない。
ブログの再開検討中。
僕はいつだって迷っている。ここから逃げ出そうとしている。けれども「ここ」とは何所だろう?自分でも分からないのだ。とにかく「ここ」なのだ。子供のころからずっと僕は「自分の居るべき場所はここではない。本当にやりたいことはもっと他にある」という観念に囚われている。
考えてみると「本当にやりたいこと」というのも、幻想のひとつなのかもしれない。「自己実現」という概念自体が、現代の宗教なのではないか?資本主義を宗教と断じ、職業を幻想に過ぎぬと嘲笑ってきた僕は、このことについて厳しく見つめなおす必要がある。
厳密に言えば「本当にやりたいこと」は、幻想ではない。確かにそれは現実のある側面を表現している。だが、そこに明確な定義はない。「本」や「扇風機」程の具体性はない。それはあやふやとしたものだ。にも関わらず、僕には「本当にやりたいこと」というものが完全に幻想ではないのだという確信がある。何故か?
例えば彫刻家は蚤を振るい、一つの木、一つの石から作品を生み出す。優れた彫刻家は決まってこう言う。「私は物体の中に埋まっていた<あるべき形>を削り出したに過ぎない。私にはそれが見えていた。それだけだ」と。これが可能なのは「本当にやりたいこと」が存在しているからではないか?
だが、それは一般的に言われているものではない。恐らく「本当にやりたいこと」という言葉が指すものは、一万人いれば一万通りある。彫刻家にとってそれは木や石の中に埋まっている形だろうが、彫刻家でない人にとっては明らかにそうではない。
僕にとってそれは「瞬間」かもしれない。歌を唄っているとき、小説を書いていて乗ってきたとき、深い瞑想に成功したとき、確かにそれは僕の目の前にあった。会社で仕事をしているときでも、多くはないがあるにはある
恐らくそれを表現するのに最も適切な言葉は「恍惚」だろう。だが恍惚と言い切ってしまうと何か違う気がする。明らかに何かが抜け落ちている。何かが欠損する。「瞬間」のほうがしっくりと来る。
話がぐちゃぐちゃになってきた。
今、僕にはっきり言えることは「本当にやりたいこと」は、非常に多くの場合「職業」ではないということだ。「職業」という言葉はあまりに多くのノイズを含んでいる。プログラマーにも色々いるし、漫画家にも色々いる。20代の頃の僕は「職業」という言葉を足掛かりに「本当にやりたいこと」を探し、暗礁に乗り上げてしまった感がある。
恐らく「職業」という概念自体が原始的で、効果的ではないのだ。
確かに昔みたいな人生に対する情熱は失ってしまっている。それはここ1年のうちに突然起こった。
今日、レンタルビデオ屋の中を歩いていて猛烈な鬱に襲われた。頭がクラクラとして気分が悪い。立っているのも辛いくらいだった。自分の人生にはもう何の意味もないのではないか。何も楽しいとは感じないし、腹の底から笑うような機会も随分と減ってしまった気がする。
スターバックスでフラベチーノを食べると頭がすっきりしてきた。さっきまでの不愉快が嘘のように消えていった。あれは熱中症の一種だったのかもしれない。頭に熱がこもって、そのせいで気分まで悪くなってしまったのだ。そう結論づけてみようとした。だが、やはり少々無理がある。
自分の中に大きな変化が起こりつつあることは間違いない。僕はその変化に戸惑っている。今は昔ほど会社に行くことが嫌だとは感じない。むしろ会社での仕事を楽しんでいる。残業漬けの日の方が、定時で帰る日よりも気分がいいくらいなのだ。
しかし会社の仕事に意味を感じているかといえば、感じていない。少なくとも会社が達成しようとしている目的には何の価値も感じない。ただ、3年もひとつの会社にいると、中の人たちと仲良くなって居心地が良くなってくる。ミュージシャンとしても漫画家としても僕はあまりにも傲慢に生きてきたから、深く付き合える友達がとても少ない。だから会社の中にできた人間関係が、僕にとって孤独を癒してくれる掛け替えのない財産になってしまっているのだ。生活費の為に自分を殺して謙虚に暮らした日々が、こんな形で報われるとは思ってもみなかった。
現状に危機感を感じてはいる。こんなところで立ち止まってしまうのか?こんなところで終わっていいのか?前に進め、前に進めと駆り立てる何かが僕の中に住んでいる。
だが、もう僕にはかつてのようなビジョンがない。かつては強烈なビジョンに突き動かされて生きていた。底辺を作ったとき、ハイエンドオタクマニアックスを作ったとき、ニートオブザデッドを描いていたとき、テンゴクトジゴクを、フラグを書いていたとき、僕は強烈な意味を感じていた。神の意志に従って生きているという充実感があった。
今の僕にはそれがない。何をすればいいのかわからない。必死で探しても見つからない。もしかしたら前ほど必死で探していないのかもしれないが、本当の所は分からない。
とにかく僕はそのことに焦っている。とても焦っている。僕の人生は終わってしまっのか?僕にはもう生きている意味がないのではないか?そんな感情がどうしても沸いてくるのだ。
それにも関わらず僕は昔に戻りたいとはちっとも思わない。
同じことを繰り返しても仕方がないし、価値のあるものを沢山手に入れたことも事実だ。かつての情熱を取り戻す、では我慢できない。
次のステップに進みたいのだ。
それにしてもこの国の人間は、何故これほどまでに雇用にこだわるのか。未だに僕には理解できない。
一か所に人間を集めて会社組織を形成し、構成員ひとりひとりが組織の存続の為に努力する、というやり方は、明らかに現代社会にマッチしていない。
会社はもっとフレキシブルな形態をとるべきだ。タイムカードなどいらない。毎日出勤する必要などない。秩序だった組織などなくていい。
現代において仕事を行う上で重要なのは「プロジェクト」この一点だけだ。ひとつのプロジェクトを達成するためにチームを組み、努力する。プロジェクトが終われば、一所に集まっている意味はない。
プロジェクト立案とともに発足し、プロジェクト達成と共に解散する。これこそが21世紀の会社のあるべき姿ではないかと思う。
現在の会社はこの逆だ。社員が会社にやってくる。だからどうにかして働くネタを用意しておかなければいけない。こういう思考回路でプロジェクトがでっちあげられている。これでは陳腐なアイデアしか沸かなくて当然だ。
そもそも意義あるプロジェクトは、電撃的な啓示によってしか与えられない。「何かいいアイデアないかな」と頭を捻ったところで、出てくるネタはたかが知れている。すべてはインスピレーションに掛かっているのだ。「これこそが私の仕事であり、使命であり、ミッションである」と確信できる目的が産まれるまで下手に動くべきではないのである。
「それでは仕事にならない」と思う人もいるかもしれない。それでは経済が回っていかない。とんでもないことになる。社会が滅茶苦茶になってしまう、というわけだ。
だが、仕事とは一体何なのだろう?していることの意味も考えず、とりあえず会社に出かけ、そのプロジェクトに価値があるかどうかはわからないけれども、とりあえず汗は流したからそれでいい。一体何が「それでいい」のか?そうやって存続していく組織や社会にどれほどの意味があるというのか。今、この国に元気がないのは、仕事に対する根本的な理解が間違っているからではないだろうか。
新たなパラダイムが必要とされている。高度経済成長の終焉とは、同時に労働集約型産業の終焉でもある。人々はこれ以上豊かな生活を求めていない。物質的には十分に満足している。足りないのは精神的な充足、本当に価値のある仕事に携わっているという意識だ。誰もが胸を張って「これが私のミッションだ」と言える仕事との出会いを、心の底から求めている。現在の労働システムは、人間がこのような仕事を探し、見出すことを阻害しているとしか思えない。
もっとうまいやり方があるはずなのだ。必ず。
ここの所ちょっとした規模のプロジェクトに携わってて、会社が中心の生活を送っていた。
で、そいつがひと段落したこともあり、プライベートな時間が持てる日々が戻ってきたんだけど。
なんだか心のバランスがおかしくなってる気がする。家にいると妙に焦る。何かをしなくちゃいけないんだけど、何をしたらいいのか分からない。漠然とした不安に襲われる。
僕はいつのまにか会社に依存してしまっていたんだと思う。会社で仕事をしていると、無条件に「意味のあること」をしている気分に浸れる。本当のところそこに意味があるのかは怪しいものだし、多分何の意味もないドタバタ騒ぎを繰り返してるだけだってことを、頭では理解してるんだけど。
そんな僕にとっても会社というものは、非常に強力な<意味を保証する装置>なのだ。
一か所に人が集まるということ。それらの人々が、ひとつの目的に向かって行動していること。こういったことは無条件に意味を生み出していく。人は心のどこかでそれを求めてしまう。僕のように自分勝手に生きてきた男でも、いつのまにかその甘い誘惑の中に嵌ってしまっている。会社は僕に役割を与えてくれている。会社は僕に意味を与えていてくれる。
だけどそれに甘えてばかりいたら、人生はすぐに限界に到達してしまうだろう。
前に進まなくてはいけない。不安と向き合うのだ。僕の求めるものは漠然とした不安の中にしか存在しない。不安を恐れてはいけない。まだ凡庸の中に入り込むのは早すぎる。
僕はまだ諦めたわけではないのだ。
近頃は何をしていてもそれなりに面白く感じてしまうんだけど、昔のように深い感動を覚えることがなくなっている。
そういう状況に「こんな事じゃ駄目だ」っていう危機感は覚える。一方で流れに逆らっても上手くいかないってことを今では痛いくらいに理解している。
だから終始ニヤケ面で、幸せなフリを突き通すのだ。レッツ・ポジティブシンキング。実際の所そんなに気分が悪いわけじゃない。今では僕はかなりのレベルまで自分の感情をコントロールできる。少々嫌なことがあったって、気分を変えることくらい訳のない話だ。コーヒーを飲んで、深呼吸すれば、痛みは収まっている。
けれどもいつだって心のどこかで叫んでいる。「飛びたい。飛びたい。逃げ出したい。こんなのは本当の人生じゃない。」その声にもきっと一抹の理がある。今僕がいる場所は多分人生の袋小路だ。絶望がない代わりに希望もない。いつだって気分は80点。空は晴れてるんだけど、嫌な所に雲が浮いていて、胸を張って幸せだとはどうしても言えない。
そんな感じの日々。
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