破。

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版・破」を観て来た。
 以下は毒にも薬にもならぬ感想である。

 まあ面白かったのだが、なんとなく物足りなかった。僕ちゃんもいっぱしにロストなジェネレーションのヲタであるからして【エヴァに死ぬほどハマッっていた時期】というのが人並みにある。ぶっちゃけ、その後の人生を左右するくらいの強烈な衝撃を受けた。
 だからだと思うんだが、エヴァを単なるエンターティメントとして楽しむことがどうしてもできないのである。

「破」はエンターティメントとしては一級品である。期待を裏切らない完成度、いわゆる所の「間違いないデキ」ってやつだ。安心して楽しめる。すごい作画、すごい演出、豪華な製作チームと豪華な声優陣――およそ期待した通りの感動を味わえる。

 だが、それだけだ。
 それ以上の感動――脳味噌がおかしくなる位の感動はそこに無い。
 あれでは単なる「アニメ」なんじゃないだろうか?
 こういうと「そーだよ、単なるアニメだよ。」と言い返されてしまいそうだが、僕はどうしてもエヴァにはどうしてもそれ以上のものを求めてしまうのだ。


 特に脚本は、もうちょっとやり方あったんじゃないかなと思う。一番気になったのは、
 (以下ネタバレ含むので注意でござるよ!)

1.序→破→Qの3部作で決着をつけなければいけない。
2.で、あればポイントを絞ってシノシプスを練るべき
3.よし、レイとシンジの人間関係を核に添えよう
4.となるとアスカが邪魔になるよなー、
5.よっしゃ思い切って噛ませ犬にしてしまおう。
6.でも、ファンが怒るんじゃないかなぁ…怖いなあ・・・
7.そーだ!苗字を変えてしまおう。こいつは惣流じゃなくて式波ね。
  だから適当に扱っても、クレームは受け付けないぞ!!

 という小賢しい計算が見え隠れしていることだ。エヴァンゲリオンは全ての計算を投げ捨てて神風戦法で挑むからこそエヴァンゲリオンになりうるのであって、技術やテクニックに逃げてしまっては何の意味もない気がする。
「ファンが怒る」いいんじゃないだろうか?怒らせておけば。
 何故そうも神経質に気を配った作品作りに固執するのか?そういう「守り」の発想が随所に露見してしまっているから、戦闘シーンでキャラクターが捨て身の戦法をとっても白けてしまうのだ。

 「何をムキになってるの君は?」と言われると、言い返しようが無い。 
 ウソはウソとして楽しんでおくのが大人のエチケットって奴かもしれない。
 でも、エヴァって中二病な所がステキな気がするんだよな。「破」に圧倒的に欠けているのは中二病的要素だと僕は思う。せっかくのエヴァなんだから、中二病成分を全身に目一杯浴びて帰りたかった。そういう意味では、期待外れだったのかもしれない。期待を裏切らないデキなんだけど期待外れっていうか、なんかそんな感じ。


 とまあ、そんな事を感じながら観ていたんだけど、総括するとするならば
 
 面白かったです!!!
 エヴァお勧めですよー
 5点中4.5点はあげちゃいます!!えへっ!!!!

 って感じですかね。


 以上、感想文終わりでござるっ!!!

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無題

 今だから言える、というか自分でもわかるようになったのだが――

 僕が就職したのは、怖かったからだ。三十才を過ぎて就職せず、漫画でもうまくいってないという状態が生み出す恐怖に耐えられなくなった。だから逃げた。
 僕にとって「就職」とは逃避以外の何物でもなかった。僕は自分に負けたのだ。自分を信じる代わりに、社会のシステムを信じてしまった。

 割とプログラムは得意なので、仕事は特に問題も無くこなせている。人間関係に悩むことも無い。外国相手の仕事が多いため、英語も得意になってきた。少なくとも読み書きについては苦ではなくなりつつある。

 それが、何だ?そんなものに何の意味がある?何も無い。心は空虚なままだ。
 だからといって僕が逃げ出したという事実には何の変化もない。
 僕は逃げた。やれることを全てやりきる前に逃げた。この心の弱さが敗因か。

 もう一度戦場に戻りたい。
 次は、もう絶対に逃げない。

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プログラミングの話。

 僕はプログラミングで飯を食っている。近頃一日8時間はVCとにらめっこする生活を送っている。

 プログラミングをしていて思うのだが、これからのソフトウェアの開発は極力オブジェクト指向の思想に従って進めるべきだろう。ゴリゴリのC言語プログラミングは、後から仕事を引き継ぐ人間に多大な迷惑をかける。

 僕は「オブジェクト指向なんてモンは現場は使えないんだよ」という人はプログラミングがわかってない人だと思う。オブジェクト指向を無視してソフトウェア開発を行うと、長期的に見て劇的に生産性が低下する。コードの利用が5年、10年と経過するうちに、開発当時には予想もできなかった拡張の必要性が産まれるのである。モジュールの独立性を考慮しないと、ソフトウェアの機能を拡張する時に、どの処理が冗長で、どの処理が冗長でないのかまったくわからなくなる。結果、プログラムはとんでもない方向に拡張していく。
 それを5年、6年と繰り返しているうちに、やがては誰も全体像を把握できない悪魔召還呪文のようなコードになってしまうのだ。

 近頃わかってきたのだが、実はこのようなコードがドライバとかサービスとか、システムの中核に近い部分に無数に存在している。ここ10年でCPUの性能は、昔とは比べ物にならないくらい上昇したのにOSのスピードがどんどん遅くなってるように感じるのは、拡張に拡張を重ねた冗長なコードがプロセスの中に潜んでいるからではないだろうか。

 ポインタを自在に操る、ハードウェアに依存したプログラミングは確かに楽しい。Z80全盛時代からコンピューターに触ってるから、その気持ちは理解できる。でもそれは、プログラマーのエゴでしかない。

 正直「JavaとかC#とか、高級言語は子供のオモチャだろ」とか言ってる人ほどメモリリークするプログラムを組んでるような気がする。機械語レベルでプログラムのスピードを上げなければいけなかったのは、はるか昔の話だ。現代のプログラミングはあまりにも大規模すぎて、そんなディティールにこだわっている余裕は無い。

 そろそろ、全てのコーディングを高級言語で行う時代が来ていると思う。
 
 とかなんとか、生意気なことを書いてみる夏の夜でしたw

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作品集

これまでに書き連ねた小説をまとめてみました。
結構いっぱい書いたなー

http://members.at.infoseek.co.jp/maou_gen/Novel_Index.html

お暇な方はご一読あれ。
テンゴクトジゴク・フラグあたりがお勧めです。

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軽々しく夢を語るべきではない。

「自分の目標や夢、ヴィジョンと言ったものは、心の中に秘めておいた方が良いか?それともオープンに公表すべきか?」

 という問題について、僕はかなり長いこと考えてきた。
 近頃、この問題に関する結論が出た。どうやら、

「必要性がない限り極力公表しない」

 が正解のようである。
 これまで僕は「夢は公表した方がプラスになることが多い」と考えてきたフシがある。
 だが、30年の人生を振り返ってみると、あけっぴろげに語った夢に関しては全て挫折し、心に秘めておいた密かな夢の方は、その殆どが叶っている。

 何故、そういう結果になるのか?
 以下はその考察である。

 まず第一に「公表される夢」というのは、公表する為にわかり易く脚色されてしまうことが多い。
 人間は夢を語るとき「聞く人にわかりやすいように」との配慮からか、しばしばビジョンを脚色して語る。これが致命的な結果を産むことが非常に多いのだ。

 本来「夢」というものは極めて個人的なものである。1000人いれば1000通りの固有の夢があると考えるのが自然である。
 だから本当の「夢」というものは、非常に微妙なニュアンスでしか表現できないものであり、それを正確に人に伝えることは物凄く難しいのだ。
 
 例をあげよう。
 「Aさん」という仮想の人物がいたとして、
 Aさんの持っている本当の夢が

「心の中に存在するドロドロとしたものや、時折見る幻覚のようなものを形にしておきたい。どういった形でも構わない。映画でもいいし、漫画でもいいし、詩でもいいし、音楽でもいい。彫刻でもいいかもしれない」

 というものだったとする。この夢を他者に伝えるのが非常に難しいのは明白である。
 ここでAさんが自分の夢を公表し、協力者を募ろうと決意したとする。
 するとAさんは「自分をわかってもらうために」夢を捻じ曲げて説明してしまう。
 
 「私の夢は漫画家である」とか
 「私の夢はミュージシャンである」とかいうふうに、

 他人に伝わりやすいように、夢にバイアスをかけてしまうのだ。
 悪いことに、これは自己暗示となってAさんに作用する。こうなると、始めに抱いていた「何かよくわからないドロドロしたものを表現したい」という気持ちは無意識下に沈み込んでしまい「漫画家になりたい」「ミュージシャンになりたい」というわかりやすい願望に摩り替わってしまうのである。
 
 この自己欺瞞からくる深層意識と表層意識のずれは、葛藤を生み出し、多大な精神的エネルギーの損失となる。
 結果Aさんは葛藤でエネルギーを使い果たして行動力を失ってしまうから、非常に夢が叶いにくくなるのである。

 
 第二に「夢」「目標」を公表してしまうと、
 
 「何かを追いかけている人間」として周囲に認められてしまい、それだけで満足してしまう。

 という問題がある。
 もっとも卑近な例では「恋人募集中のジレンマ」が上げられるだろう。

 「私は恋人募集中です!」

 と周囲に公表すると、まわりの人間は面白がって異性を紹介してくれたり、コンパの席を設けてくれたりする。
 さらには「こんなに恋人が欲しいのにできない」という悩み相談を真剣に聞いてくれる友達までが現れる。
 こうなるともう駄目だ。本当に恋人を獲得することは殆ど絶望的である。
 何故かと言えば、

「理想の恋人を求める壮大なメロドラマ」

 に酔いしれてしまうからだ。
 いつの間にか「恋人を作る」という目標はどうでもよくなり「恋人を追い続ける」事のほうが楽しくなる。
「恋人募集中」だったものが「恋人募集中ゲーム」へと変化してしまうわけだ。
 そして恋人を作ることを恐れるようにさえなっていく。恋人ができてしまえばゲームが終わってしまうからだ。
 楽しい時間は長いほうがいい。
 だから、ゲームをギリギリまで延長する。
 結果、いつまで経っても恋人は作れない。出来たとしても、何かと理由を作ってはすぐに別れるという構造が成立するのである。


 このような状況に陥らないために我々がとれる方法はひとつしかない。

「夢や願望を公表することは極力避ける」

 ことである。どうにも染みったれた、ケチくさい結論で、正直好きにはなれないが、この考察は恐らく正しい。
 そういえば周囲を見渡しても、夢や願望を語らない人間の方が金持ちだったり、仕事面でも成功していたり、結婚して子供もいたりと「実」を手にしているように思う。
 以上の理由から僕は、今後夢や目標を持ったとしても、それを他者に語ることを極力避けると思う。


 本当に夢を叶えたいのならば、軽々しく夢を語るべきではない。

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HELLSING10巻

 たまには漫画の話でも。

 Hellsing最終巻を読んだ。
 10年間追いかけてきた漫画がついに終わった。近頃はとんと漫画を読まなくなり、リアルタイムで追っかけてたのはコレだけかもしれない。

(以下ネタバレなので注意してください!)

「少佐が機械の体」というオチは、少佐というキャラクターが登場した瞬間から読めていた。
 往年の平野耕太ファンならば「少佐」イコール「モンティナ=マックス」という構図は自明中の自明であるから、当然のことだ。

 先がわかっていても、その瞬間を楽しみにしていた。
 このプロットをどのような演出で表現するのかを見たかったのだ。このあたり、クラシック音楽を聴く気持ちに通ずるものがある。

 だが、どうもうまく表現できていないような気がする。
 なにかこう、サラリと流してしまった感じで、消化不良の読後感が残ったのだ。

 少佐は絶対に人間でなければならなかった。

「世界を滅ぼそうとする不死の化物を率いるのは有限の命を持つ人間」

 というモチーフは「人間対怪物」を描く上では外せない。この代表作とも言えるのが岩明均の「寄生獣」である。
 平野耕太の頭の中には間違いなく「少佐=寄生獣の広川市長」の構図があった筈であり、最後の結末ではそれが意図的にトレースされている。ならば、もっと完全な形で表現されるべきであろう。

 これでは単なる劣化コピーとして終わってしまう・・・20年近い闘争の決着がこんな形でいいのだろうかと、いらぬお節介な考えが読後、脳裏を駆け巡った。

 ってな感じなんですけど、皆さんはどうだったでしょうかw

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「楽しさ」の構造

 ここ数日で「楽しさ」についての考察が深まったので、書き記しておこうと思う。

 年を取るにつれて「楽しい」と感じるものの質は、明らかに変化する。

 例を挙げよう。
 30歳の僕が同年代の友達に「今から隠れんぼをしよう!」と声を掛けたとする。
 或いはこの無謀な提案に、5人位は乗ってくるかもしれない。だが、ただ隠れんぼをするだけでは済まない筈だ。
 その隠れんぼには間違いなく「最後に鬼になった奴が飯を奢る」とか「全員コスプレをしてくる」とか「詳細をブログにアップする」などの付属物がついてくるのである。純粋な隠れんぼは、大人にはストイックすぎて楽しめないのだ。
「大人」という生き物は、どのような行為であろうと、そこに何らかの意味や付加価値を求める。

 大人は、

「金」  「名誉」  「酒」  「コミニュケーション」

 の内のどれかが絡んでいないと、その行為に意味や楽しさを感じない。
 どういう理由かはわからないが、一部の例外を除いて殆どの人間にこの変化が起こる。

 この変化を自覚していないと人生に「楽しさ」を見出すのが難しくなる。
 若い頃は、ラクガキをして思ったより上手く絵が描けたり、鼻歌を歌ったら物凄く上手く歌えたり、徹夜でゲームに熱中したり、馬鹿話に興じたりという事を純粋に楽しめる。
 ところが大人になると、こういった行為にどうしても虚無感を感じてしまうようになる。

「それは時間の浪費に過ぎないのではないか」

 という疑問が生まれのるだ。

 それは決して「楽しいものがなくなった」からでも「世の中がつまらなくなった」からでも「人類が堕落した」からでもない。
 当然のことながら「オレの青春はもう終わった」からでもない。

 真の原因は「楽しい」と感じる条件のハードルが上がってしまったことにあるのだ。
「楽しさ」に関して、贅沢になってしまっていることが原因である。

 これを回避する方法は、思いつく限りで3つある。

 ひとつは「楽しい」と感じるハードルの高さを意識的にコントロールすることである。これは呼吸法と瞑想を熱心に行うことで可能となる。ヨガやガーデニングなどの趣味も、人によっては効果的だ。

 もうひとつは、高くなった「楽しさ」のハードルを満たすべく努力することだ。
 会社で権力闘争や出世競争に明け暮れてみたり、起業したり、プロの漫画家やミュージシャンを目指してみたり、恋愛の相手をコロコロと変えてみたり、倒錯的なセックスに興じたり、コンパしたり、結婚したり、離婚したり、といった方法が効果的である。

 最後のひとつは、麻薬や覚醒剤を服用したり、過度の飲酒をすることによって強制的に「楽しさ」を感じるハードルを下げてやることである。
 
 3つめのソリューションは、努力は必要としないが「警察に見つかると逮捕される」「お金がかかる」「犯罪組織に身元が割れる」「健康に良くない」といった高いリスクを抱えているので、あまりお勧めできない

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「楽しければいい」のかもしれない。

 楽しければ、いいのかもしれない。
 人生に、それ以上の意味を求めるべきではないのかもしれない。 
 
 近頃、そう思う瞬間が増えてきた。
 僕はこの考え方には反対の立場をとってきた。今でも「楽しければいい」という考え方には大きな抵抗がある。

 「人生には明確な意味が必要だ」
 「それは疑う余地が無いほど明白なものでなくてはいけない」

 ということが、30歳までの人生の指標だったように思う。しかし、それを厳格に考えれば考えるほど、毎日が陳腐になっていった。

 僕は22歳から29歳までの人生を「漫画家」という肩書きを得るために費やした。それが僕にとっての「意味」であった。
 はっきり言ってこの選択は失敗だったと思う。僕は、伝えたいメッセージやアイデアは無尽蔵に湧き上がってくる体質だが、作画に伴う単純作業がとても苦手なのだ。
 プロットからネームまでは楽しめるのだが、下書き以降の作業はとても苦痛だった。特にトーン作業は、死ぬほど嫌いでどうしても手がつけられなかった。
 世の中には、細かい単純作業を殆ど苦痛を感じることなく行うことができる人たちがいる。彼等は僕の嫌いなトーン作業を、実に楽しそうにやってのける。当然のことながら、作業を楽しめる人たちのほうが仕上げが綺麗で、正確だ。
 多分、彼等はトーン作業を「単純作業」とは感じないのだろう。トーン作業の中に無限の広がりを感じる才能をもっているのだ。

 そういう人たちにコンプレックスを抱きながら、単純作業に伴う苦痛を堪えに堪えて漫画を描き続け、やっと「漫画家」という肩書きを手に入れたものの、長くは続けられなかった。
 楽しくないと、続かない。僕は「漫画家」の肩書きに大きな意味を感じていたが、どうしても続けられなかった。

 何故かと言うと、つまらなかったからだ。
 漫画製作に伴う作業の90%がつまらなかった。
 

 現在は就職してプログラマーをやっている。
 プログラミングは楽しい。設計からリリースまでの作業の80%を楽しめる。苦痛なのは検査仕様書に書かれた作業を書かれている通りに何千回と繰り返さなければいけないデバッグ作業だけで、あとは楽しい。
 楽しいから続く。IT関係の仕事に「意味」は全く感じていないが、とりあえず楽しいので続けられるのである。

 そう考えていくと「意味」とは一体なんだろうという疑問にたどり着く。

「人生の意味」

 それこそが思い込みや固定観念、即ち単なる幻想である可能性は否定できない。その可能性に一抹の恐怖を抱きながら、僕は人生に「意味」を求め続けてきたような気がする。
 ここに大きな皮肉がある。人生に「意味」を求めれば求めるほど「意味」が失われていくのである。ここに僕はシュレディンガーの猫的なアイロニーを感じざるを得ない。

 ならば僕はもう、人生に「意味」を求めることをやめて「楽しさ」だけで人生がうまくいっているか、そうでないかを判断すべきなのだろうか?
幸福の基準の中心軸に「楽しさ」を当てはめることで、全ては上手くいくのだろうか?
 
 どうだろう。
 直感的には、一筋縄ではいかないような気がする。

「楽しいか、楽しくないか」

 確かにこれは簡単だ。非常にシンプルである。そのときの自分の気持ちを感じればいいだけなのだから。



 会社の同僚や友達と飲みに行くと、酔っぱらった奴は必ず

「楽しければいい」

 と声高らかに主張する。この傾向は20代の後半から顕著となり、30を過ぎると完全にこの思想に囚われるようになっていく。サラリーマンでも、フリーターでも、漫画家でも小説家でもミュージシャンでも変わらない。
 30代に突入した人間は、どのような立場にあっても「楽しければいい」と主張するようになるのだ。

 僕はその思想の根底には「鈍い絶望」があるように思えてならない。
 人間は大人になるにつれ、若い頃心の底で信じていた「正しさの基準」が、社会の複雑さの中で全く通用しないことを悟り、その基準を捨てていくようになる。
 その結果、最後まで生き残った基準が「楽しさ」ということなのかもしれない。

 だとすれば、どうなんだろう?
 本当のところ、どうなんだ?

 そういえば40代、50代になって心身症を発症し、入院したり自殺したりするサラリーマンが後を絶たないが、これこそ「楽しさ」を追求した挙句の結末なのではないだろうか。
 

 やっぱり、この問題については結論が出ない。

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苦悩と告知。

 天誅を、続けるべきか、辞めるべきか
 ずっと迷い続けている。

 天誅活動は楽しい。舞台に立って、お客さんが楽しそうにしてくれたときは「生きてる意味」というやつを実感できる。
 ちょっと前まであやふやだったけど、今は自分が何故生きているのか、何の為に存在しているのか、はっきりと理解している。
 「感動を生み出し続ける」ためだ。
 そのために全人生を賭けても惜しくない。
 それ以外に「仕事をしたな」と感じる事がどうしてもできない。
 会社に行って、上司の言う通りに作業をしても「仕事」だとは感じない。ゲームやってるのと同じで、ヴァーチャルであやふやな感覚しかないのだ。
 
 僕は自分にとって一番大切なことに、時間とエネルギーの全てを費やしたい。「金を稼ぐ為だけに働くこと」は、大きな障害である。会社で仕事することで、ちょっとでも世界に貢献できるならそれでも救いはある。だが、どうやらそうではないらしい。
 自分にとって会社で働くことは「金」以外に何の意味も持たないということを、はっきりと実感した。

 だから僕は、いかなる手段を用いてもサラリーマンというライフスタイルから脱却しようとするだろう。
 どれだけ時間がかかるかはわからないが、全知全能を傾けて、自分にとって一番大切なことに専念しつつ食っていく道を見つけようと思う。
 どうやらこれは、一生のテーマになりそうだ。
 

 しかし天誅というのは「サラリーマンバンド」である。
 僕以外のメンバーは、あくまでサラリーマンとして音楽を続けていきたいのであって、会社を辞めたいわけではない。ということは、いくら天誅を続けてもサラリーマン脱却の可能性はないということだ。
 それならば、天誅活動をズルズルと続けるよりも、もっと有意義な選択があるような気がして仕方が無い。


 「楽しいんでしょ?」
 「楽しければいいじゃない」
 「楽しいことが一番大切だよ」

 僕はよく、こういう説得を受ける。そうやってズルズルと天誅を10年以上も続けてきた。
 本当に「楽しければいい」のだろうか?
 「楽しさ」を、活動を続けることの指標として信頼して良いのだろうか?
 友達と遊んだり、カラオケに行ったり、ゲームをしたり、漫画を読んだり、映画を観たりしたって「楽しい」ではないか。
「楽しい」より意義のある何かを求めるから活動をするのではないのか?
 この点において、僕はどうしても妥協したくない。
 ここで妥協するには、人間社会に対して完全に絶望する必要がある。
 心に希望の欠片がほんの僅かでも残っているうちは、妥協できない。

 少なくともまだ、そんな妥協をしなければいけない程には、世界は腐っていないような気がするのだ。




 つうわけで4月12日に渋谷アクシスとか言うところでライブやります♪
 ひとつヨロシクおねがいします~☆
 ↓
 http://www.shitagi-chan.com/new/access.html

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