ブログが。。。
近頃、多忙につきブログが全く更新できず仕舞いであります。。。
もう少し落ち着いたらちょくちょく更新したいなと思っておりますです。
とりあえず、明日は天誅のライブなので、頑張ってまいりますっ
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昨日、4本目のネームを送った。
嫁と編集殿の助けで、まがりなりにもなんとか連載できている。ありがたい限りである。
思えば漫画を始めて既に20年以上が経つ。ノート漫画を描いたり投稿したり漫研入ったり同人やったり持込したりと形態を変えて続けてきて、随分と時が流れたものである。かつては流行作家の絵を模写したり、ゲームのキャラを模写したり、デッサンをやったり、テクニック本を読み漁ったりしたが、一向に絵が上手くなった気配が無いw基本的に中学生の頃から画力が変わっていない気がする。手は早くなったけど。
死ぬほど諦めの悪い僕はついこの間まで上手くなろう上手くなろうと必死で模索を続けていたが、さすがにそろそろ才能の限界だという事を認めざるを得ない。
絵に拘り続けている限りこれ以上はもう進歩しない。絵が上手くなりたいという欲望を断ち切らないと駄目になる。僕にとって絵は強みにはならないのだ。
人間の才能は限られている。ウィークポイントに気をとられず、限られた才能をいかに生かすかが大切なのだ。それしか壁を突破する方法は恐らく無い。一線を越えられた奴は、多くの物を捨てている。捨てることで得られるものがあるのだ。
これからは得ることではなく、捨てることを考えていこうと思った。
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このところ、秋葉の事件について色々と考えていた。
一番強く思ったのは「他人事じゃねえな。。」ということだ。犯人と僕はとても似ている。事件発生当時話題になった【漫画風の絵と、英語での自己紹介】はテーブルトークRPGのキャラクターシートのパロディである。小中学生の頃、僕も同じことをした。
彼が立ち上げたとされる掲示板には
「その場しのぎで笑って 鏡の前で泣いて 当たり前だろう 隠してるから 気付かれないんだよ」
という詩が書かれていたが、これはバンプ・オブ・チキンの名曲「ギルド」の一節である。バンプの曲では、僕もこれが一番好きだ。このように色々と趣味が合う。
他にも眼鏡に異常にこだわってみたり、ファッションに殆ど興味が無無かったり、やたらに自分の事を知ってもらいたがる中弐病な面があったりと、とても他人とは思えない犯人だった。学生時代に出会っていたら間違いなく友達になっているタイプである。
何か、親しい友人がこの事件を起こしたかのような錯覚を覚えた。
この為、世間で言われているように「絶望したら独りで勝手に死ね」だの「被害者の痛みを想像しろ」だのという事を主張する気がまったく起きない。正論で言えば間違いなくそうだろうし、どのみち犯人は確実に死刑だろう。
だが、僕には「彼の立場に置かれていたら同じ事をしたかもしれない」という気持ちを拭うことができない。彼のしたことは決して許されることではないが、僕は被害者よりもむしろ加害者である彼に感情移入してしまう。
悔やまれる事は、彼は何故小説を書かなかったのか?何故漫画を描かなかったのか?ということだ。一日に何百回と掲示板に書き込みしている気力があれば、そのエネルギーを創作に回したほうが遥かに生産的である。容姿にコンプレックスを持ち、人生を両親に曲げられ、受験競争に敗北し、底辺の工員となってしまった怨みを創作に叩きつければ、どん底が這い上がる可能性は1%でも残されていたはずだ。加えて小説や漫画の中ならば、どれだけ人を殺しても罪には問われないのである。
こんなことを言うと、
「25歳から始めたのでは遅い、もう手遅れだ、俺は一生負け組みだ」
と彼は主張するかもしれない。実際、これが日本における常識である。【自己実現に至る能力の開発・自己啓発は20代中盤までに完了しておかなくてはいけない】という固定観念がこの国には根強く存在しており、その理論をイチローや卓球少女愛ちゃん、北島康介といったエリートスポーツマン達が裏付けている。
だが、この固定観念は明らかな誤りである。いくらでも反証を挙げることができるからだ。司馬遼太郎が小説を書き始めたのは30歳からだし、高村薫も40でデビューしている。水木しげるだって40位まで食えてないし、松本零士もブレイクしたのは40代である。アメリカの大統領であるブッシュJrに至っては、40歳までほぼニートである。
何故、多くの人々が30歳までに人生の決着をつけようとするのか?この無用な焦りが多くの人々を絶望に落としいれ、今回の事件のような惨劇を生んでいる気がしてならないのである。
生涯を80年とすれば、まだ前半戦に過ぎない30歳という地点で見切りをつけるのはあまりにも早すぎる。25歳などスタート地点に過ぎないではないか。80歳の老人からみたら、15歳も25歳も大して変わりはしない。子供である。
無差別殺人を行うのは最低でも40歳まで待つべきではなかったのか。やれることはいくらでもあった筈だ。40歳までは希望を持って、色々と挑戦してみてもよかったのではないだろうかと思う。そこまで足掻いても一向に光明が見出せなかったとしたら、そこで初めて自らをこの世に生み出した神を呪う権利を得られるのではないだろうか。(そんなこと言ったら、40歳以上の人から文句言われちゃいそうだけど。。。)
とは言え、僕が何と言おうとも「既婚者に俺の痛みはわからない。嫁のいるアンタは勝ち組で、俺は負け組みだ」という安易なロジックで説き伏せられてしまうのだろう。
29歳で年収が150万を切っていた僕は、世間的に見れば明らかな負け組だと思うが、彼の【勝ち組/負け組】の判断基準は彼女の有無なんだからどうしようもない。
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「生産的である」とはどういうことだろうか?
より多くのことを成し遂げること、ではないような気がしている。僕の全人生の中で、知的生産性に関しては現在がダントツで一番だと思う。かなり多くの仕事を同時にこなしている。サラリーマンをやりながら漫画連載の仕事をし、音楽活動を再開して小説も書いている。こんな姿を五年前の僕が見たら、随分とすごい奴だと思うに違いない。五年前は、ひとつの活動をこなすのが精一杯だった。バイトから帰ってきたら疲れて何もできなくなっていたし、イラスト一枚書くのにも3日はかかった。今なら似たような(同じ、ではない。)クオリティの絵を2時間で仕上げられる。
しかし、僕は全く納得がいっていない。このような仕事の仕方は邪道であるとさえ感じている。小銭が稼げるようになった分、少しは成長したのかもしれないが、これが自分のあるべき姿であるとは思えない。ひとつひとつの仕事が粗くなっているし、大した成果も上げられていない。自己コントロールが上手く出来なかった20代前半の時の方が、世間的な評価は高かった気がする。(無論、世間の評価が全てではないが・・・僕は俗人なので、評価が気になる。)
貧乏な仕事の仕方をしているような感じだ。もう少しじっくりとひとつひとつの作品に取り組んだほうが良いだろう。だが、僕はADHD気質でかなり移り気な所がある。このため色々な分野にすぐに首を突っ込みたくなってしまう。こんなことをやっているうちは何もかも中途半端になっちまうぞと思いながら、面白そうな事を見つけると飛びついてしまう。
もう少し腰を据えて、ひとつの作品にじっくりと取り組める力を養いたい。けれども未だに自分のやりたい事がはっきりしないのも事実で、こんな状態ではふらふらとしていた方がいいような気がしないでもない。
この分だと本領を発揮できるのは、随分と年をとってからになりそうだ。
どうも僕は若すぎる。いつまで経っても子供のままだ。
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人間には「飽き性」であるとか「我慢強い」であるとか「マメな性格」であるとか「大雑把」とか、このような単純な言葉で言い表せる性質は存在しない。人間というものはもっと複雑に出来ている。
ある面では非常に飽き性だが、ある面では忍耐強く取り組める人がいる。
ある面では非常にルーズだが、ある面では非常にきっちりとしている人がいる。
ある人の一面だけを見て、その人の性質を判断するのは間違いだ。この間違いは非常に有害で、人間の能力を大きく制限する。
誰だって、ある面ではまったく頑張れないが他の面では物凄く頑張れたりするものだ。だから物凄く頑張れる方向へ自分を導いていかなければいけない。頑張れない方向へ自分を導いてはいけない。多くの場合苦手なものは、どんなに努力しても苦手なままだ。苦手な事は極力苦手なまま放っておき、得意なことにエネルギーを集中した方が生産的である。
自分という人間を理解することはとても大切だ。「私は飽き性だ」とか「私はマメな性格だ」という認識は大体において間違っている。それではあまりに荒すぎるのである。自分という人間についての理解の精度を高める必要がある。これは非常に楽しい作業だし、他のどんな努力よりも生産的な作業である。
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GWあたりから、「UFOと親父」の連載を続けていたのですが、ちょいと休んで雑記なども書いていこうと思います。小説しかブログにアップできない空気を自分で生み出してしまったことがストレスになっているのですわい。単なる自滅なんですけどね。。もうちょっとフレキシブルに動いてみることにしました。
もしかするとブログ連載という形態をやめるかもしれませんが確実に決着はつけるつもりです。愛読されておられた方には(アクセス解析を見る限りでは恐ろしく少数だと思うんですけどw)大変申し訳ありませぬ。
なんらかの形で発表しますので、しばしお待ちくださいなー
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只今マンガの仕事の方が多忙につき、小説の更新が滞っております。。
もうすぐ修羅場を抜けると思われるので、しばしお待ちをお願いします・・・!!
見捨てないでくれえええええぇぇぇwww
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「ゴールデンウィーク」というすばらしいものを利用して、小説を一本書いてみることにしました。
この大型連休、お暇な方は是非とも付き合ってやってくださいまし~!!!!
↓から飛ぶと、読みやすい構成になっておりますよん
http://maou-gen.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_8494.html
それでは、是非ともヨロシクお願いしますー!
↓ブログ人気投票にもご協力くださーい。クリックお願いします♪
http://blog.with2.net/link.php?575677
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「ある人との出会いがその後の人生を大きく左右する」
という事を言う人がいる。
僕はこういう考え方に強い疑念を抱いている。
考えてみると「出会い」が人を変えるというのは、ものすごく依存的な発想である。誰かに出会って、その人の元気を分けてもらったとか、インスピレーションを貰ったという話を聞くと、正直甘えすぎなんじゃないかと思うのだ。
かつて僕は、とても憧れの多いミーハーな人間だった。有名なミュージシャンや著名や作家や、大企業の社長といった「カリスマ」と呼ばれている人たちは「雲の上の存在」であり、一般ピープルとは違うパワーや才能を持っていると信じていた。だから、そういう人に出会うことで特殊なオーラやパワー、インスピレーションといったものを得ることができるのだと考えていたのである。
だが近頃は、それが全くの幻想であることをはっきりと悟った。「有名人」「著名人」「大作家」といった人たちは、単純に大きな舞台で仕事をしているから特別な存在に見えるに過ぎない。特別なのはあくまで「舞台」であって、その人たちの才能やパワーではないのである。
あまりにニヒルで卑屈な発想に思うかもしれないが、これは紛れも無い事実だと思う。
人間というのは、本当に摩訶不思議な生き物である。
例えばゴッホの「ヒマワリ」が、井の頭公園にキャンバスだけポンと置かれていたとする。恐らくそれを目にした殆どの人は「ああアーティスト気取りのイタい奴の絵だ」と思っただけで感動など何もなく通り過ぎるに違いない。ところが同じ絵が厳重な警備体制の中、国立の美術館の中に、豪華な額縁の中に飾られていると、涙を流して感動したりするのだ。
即ち多くの人々は、作品に感動するのではなく額縁に感動しているのである。漫画も音楽も同じ事が言える。描いてある内容が同じでも、書店に平置きにされている漫画とコミティアで本人が売っている漫画では、反応が全く違う。歌っている曲が一緒でも、ストリートで歌うのと、東京ドームでで何万人という人に囲まれて歌うのとでは反応がまったく違うのである。
それに気付いてからは「有名人や著名人に会いたい」という気持ちがさっぱりなくなってしまった。チヤホヤされているカリスマに会ったところでいい事なんてあんまりない。実際に会ってみると、どんなカリスマも普通の人だという事が理解できるだけだ。加えてカリスマと呼ばれている人たちは、自分が普通の人であることがバレないように、必死で自分を飾り立てていることが多い。それを目の当たりにしてしまうと、全てがアホらしくなり、憧れも何もなくなってしまうのである。
最近は、
「別に劇的な出会いなんてなくてもいいじゃないか」
と思うのだ。どこの馬の骨とも知れぬカリスマとの出会いよりも、身近な人間関係を大切にするほうが、よっぽど生産的である。「元気」や「インスピレーション」って、街を歩いてる犬とかオッサンとか、友達の放った秀逸なギャグとか、そういう何気ないものから得られることの方が多い気がする。自分の日常を大切にしつつ、感じたことを素直に表現していれば、自ずから道は開けてくるのではないだろうか。
本当に出会わなければいけない人には、無理な努力をしなくても出会えるものだ。それが「縁」というものの妙だと僕は思う。
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久々に風邪をひいた。
ここ三年ほど病にはとんと縁がなかったのだが、やはりサラリーマン生活というのものに慣れないからだろうか。どうやら心に迷いが生じているようようである。人間は、疲労だけでは絶対に風邪を引かない。心のどこかに、会社で働いていることへの違和感が拭いきれていない部分があり、それが風邪の原因となったのだと思う。
僕は「胆力」というものを非常に重要視している。失敗を恐れず、敗北を恐れず、死を恐れず、という心構えさえ崩さなければ、大抵の困難な状況には対応できる。昨今、世間では「スキル」だとか「キャリア」というものを必要以上に持ち上げる傾向があるが、そんなものは気休めに過ぎない。技術などというものは、あればそれにこしたことはない程度のものでしかないのである。
ゆえに、心の姿勢が崩れていることに少し危機感を持っている。僕は小さな頃から胆力を鍛えることに労力を注いできた。近頃では「自分ほど何が起きても動揺しない人間はいない」と自負するに至っていたが、思い上がりだったかもしれない。
心の内のどこかに、何かに怯えている自分が存在しているのだろうか。
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天下に「大乱」を望むものの声が、日増しに大きくなってきているような気がする。
我が国においては既に大戦から50年以上が経過し、太平の世がずっと続いている。
「平和」というものは、必ずと言ってほいほど「貧富の差」という影を産み出す。長い間内乱や戦争が起こらないと、自然と富が一部の人間に集中し、搾取構造が産まれてくるのである。 平安時代が応仁の乱によって幕を閉じたのも、江戸幕府が維新によって終焉を迎えたのも、平和によって産まれた貧富の差、身分の壁を破壊したいという人々の願いが「乱」を産んだ結果だったのではないだろうか。
現在の日本は、平安時代の末期に酷似してきているような気がする。一部の人間が富を独占し、閉鎖的な環境の中で洗練された文化を生み出している。銀座の百貨店などにならぶきらびやかで退廃的な装飾は、まさに貴族文化そのもである。いま「セレブリティ」と呼ばれている階層の人々は、言わば平安の時代における貴族にあたるのではないだろうか。
一方で、貧困やワーキングプアーの問題は年々深刻化し、「持たざる者」の憎悪は沸点へと近付いている。結果、ニュースでは毎日のように捨て鉢な犯罪事件が報道されている。近頃の犯罪者の行動からは、はっきりと「社会への憎悪」が感じられる。昨今の悪質な殺人事件や強盗事件は、
「この社会構造の中では、自分は絶対に立身出世できない」
と世を果無んだもの達が、日本社会への憎悪を「犯罪」というかたちで表現しているように思えてならない。
これが「乱」でなくて何であろう。
だが、そのような「乱」は何も産まない。憎悪という破壊的なエネルギーは、一個人の中に蓄積されているだけでは一切の生産性を持たないものである。憎悪が世の中を変える力となりうるのは、何千、何万という憎悪が集結されるときしかない。
それゆえ人は、己の内に憎悪を秘めるべきものではない。憎悪とは他者と共有されて始めて世を変えていく力となりうるものだ。
「最早憎悪に身をゆだねるしかない」とまで思いつめているものは、その点を心得ておくべきである。
卑賤な犯罪行為で「乱」を求める本能を昇華してしまうのは、あまりにくだらぬ人生ではないだろうか。
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会社での労働もほぼ1ヶ月を過ぎた。
で、「残業」というものに関する考察の結論めいたものが見えた。俺の結論としては、ごくわずかな例外を除き、残業は必ず回避できる。
「ごくわずかな例外」というのは上層部が暴力団や犯罪者グループによって構成されているケースである。この場合、会社自体が法律を無視して成り立っており、残業を回避すると傷害事件に巻き込まれる可能性がある。このような会社に入社した人は、逃亡するか、涙を飲んで働き続けるしかない。
以下に、残業を回避するための具体的な方法を挙げようと思う。
■帰宅する時間を決めておく
自分が何時に帰宅するかを、出社する前に決めておく。こうすることで、
【出社してから退社するまで、どのように仕事を進めていくか】
我が道をひたすらに突き進みたい
心を閉ざし続ける僕に師はいない
解けない。混ざらない。開かない。
自分を曲げないというのは、変化を受け入れないという事だ
暖かさを受け入れれば個性は解け散る
固く閉ざされた殻の中でこそ育っていくものがある
内に向かう至高のエネルギーを選んだのだ
そういう強さもある
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会社での仕事には何の意味も無い。
とくに素晴らしいものを作っているわけでもない。「こんなものは誰も使わないだろう」という、実にどうでもいいソフトウェアの開発の一端を担っている。企画、設計、プログラム、全てが稚拙だ。稚拙というか、全くやる気が感じられない。本気で作りたいとは誰も思っていないものを、大勢の人間が流れに身を任せて渋々作っている。だから、非生産的な責任の擦り付け合いや誤解や争いが生まれ、プロジェクトがどんどん遅滞していく。
それは別に苦痛ではない。僕は会社では、純粋に金の為だけに働いているので、自分のやっている仕事に意味があるかないか、などということはどうでもいい。意味のある仕事は自らの力で生み出していけばいい。最早社会には一切期待していない。僕が「意義がある」と感じることに、僕以外の誰も意義を感じないのならば、独りで自らの意義を追及していくしかない。それはしょうがないことだ。絶望している暇はない。限られた時間を有効に使い、少しでも本当の意味での仕事に携わりたい。
僕にとっての「仕事」とは、今は書くことであり、学ぶことである。一銭にもならないかもしれないが、今はこれだけが自分の存在意義であると思う。自分で言うのもなんだが実に重苦しい考え方である。はっきり言って、心を閉ざしている。たかが五年やそこら、辛酸を舐めたくらいでこんなにひねくれてしまうのもどうかと思うが、それが性分とあらば仕方が無い。
これから僕はどう変わっていくのだろうか。会社の上司達を見ていると、ああいう風にだけは絶対になりたくないなと思う。悪い人たちではないのだが、完全に自分を見失っている。自分にとっての優先順位が見えていないのだ。だから常に混乱しているように見える。
混乱しないために、僕は心を閉ざしているのかもしれない。それ以外にいい方法がまだ思いつかないのだ。
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「会社」という組織において、
【目的を達成すること】と、【マニュアルを厳守すること】では、どちらが大切だろうか?
世の中には、マニュアルによって定められた手順が全く役に立たない局面というものが多く存在する。このような状況下では、マニュアルを度外視した独創的な解決策が、問題の突破口となることが多いだろう。
だが、一度マニュアルを無視した行動を許してしまえば、組織内に「自分勝手に行動してもよい」という空気が産まれることも確かだ。1000人単位の人間が働いている組織では、このような規律の乱れが致命的な問題を引き起こすかもしれない。
現在、僕が会社で携わっているプロジェクトが抱えている問題は、マニュアルが全く役に立たない部類のものだ。というよりは、マニュアルそのものが問題を引き起こしているように思える。根本的な設計の段階で重大な欠陥をいくつも抱えたまま、最終工程まで来てしまった感じだ。大規模なソフトウェア開発においては、ウォーターフォールモデルが有効と教科書には書いてあったが、初期の段階で問題が丸投げされた場合の対処法については書かれていなかった。
この状況下では創造的な解決策が要求されている事は明らかだ。部署や役割を超えて問題を解決していくために、エネルギーを集中すれば、この程度の問題は必ず突破できる。
だが、従業員達はそれを頑なに拒む。この状況下においてもマニュアルを厳守し、無駄なタスクを増やしている。このためコストは跳ね上がり、納期は伸び伸びになっている。
ここまで莫大な犠牲を払っても、マニュアルを遵守することに意味があるのだろうか?と、新米の僕はいつも疑問に思う。確かに僕は、自分勝手な判断を下して失敗することが多い。早とちり、決め付けで重大なミスを侵してしまうことも確かだ。そしてその原因は、マニュアルを厳守しないからだ。それは自覚している。
だが、それでも違和感は拭えない。正直、現在進行中のプロジェクトは、マニュアルさえ無視すれば今の10分の1の人員、半分の労力で倍の完成度のものを作ることができると思う。
これも素人故の浅い考えなんだろうか?現実はそんなに甘くないんだろうか?全く現場を理解していないだけなんだろうか?
直感的にはそうは思わないが、もう少し様子を見てみないと、本当の所はわからない。
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思考というものも、突き詰めればエネルギーの流れである、ということを考えていた。
科学的な考えによれば、思考の正体とは、脳内で起こっている化学反応である。我々人間は「意志力」という不思議な力を持っており、この化学反応をある程度コントロールすることができる。
が、全ての化学反応を完全にコントールできるわけではない。例えば、怒ったりテンパったりしている時、心のどこかで冷静な自分が、我を忘れて狂っている自分を観察しているような感覚を覚えることがある。これは、脳という器官は力学の法則に逆らうことができないが、精神は力学の法則から隔絶されていることから起こる解離現象であると僕は考えている。
俗に言う「頭のいい人」というのは、恐らく脳内で起こっている化学反応を利用することが上手な人であろう。脳内の化学反応の全てを意志力で支配するのはとてつもない精神エネルギーが必要だ。しかし、脳内で起こっている化学反応を上手く利用して目的の方向に持っていくのであれば、精神エネルギーの損失は遥かに少なくて済む。全てをコントロールしようとするよりも、今現在自分に働いている力を利用して目的の方向に持っていくほうが遥かに大きな効果を望めるだろう。
全てをコントロールしようとすると、自然な力の流れを周囲から押さえつける為に意志力を消耗することになる。そうではなくて、自転車に乗るような感じで慣性に任せた思考法を見につければ、きっと今よりもはるかに多くのことを、小さな力で行うことができるようになるはずだ。その為に一番大切なことは、力の流れを感じ取る感受性を養うことだ。力の流れに対する感受性が鈍いと、どうしても押さえつける感じの力の使い方をしてしまう。
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よく人に「夢があっていいよね」と言われる。
僕には「夢を追っている」という自覚が無い。自分が一番やりたいと思ったことや、しなければいけないと思ったことをやっていたら、周囲に「夢追い人」扱いされるようになった。僕としては自分にとって、一番現実的な選択を必死で選んできたつもりだが、どうも他の人にはそう見えないらしい。
「夢追い人」などと呼ばれる事は心外だ。僕は、自分自身を「徹底した現実主義者」だと思っている。
学生時代、僕にとって「就職」ほど非現実的な選択はなかった。朝起きるのがものすごく苦手だったし、人と同じことをすることができなかったので、とてもではないが会社で働くのは無理だったのだ。大学を卒業した直後の僕は「働く」為のスキルも忍耐力も持ち合わせていなかった。運動部経験もなく、アルバイトもロクにしたことがなかったから、縦社会の人間関係に対処するスキルも極めて未熟だった。
20歳を過ぎてからアルバイトをして少しずつ「働く」ということに慣れていき、30近くなってやっと「自分も普通に働けるな」という自信がついてきた。だから就職したのだ。ただそれだけである。会社で働いている理由も「社会に貢献したい」とか「自分を磨きたい」などという大層なものではなく、単純に金が欲しいからだ。
「会社で働くと、金が稼げる。」これは疑いようの無い事実である。もちろん、給料が未払いの状態で会社が倒産する確率も決して無視はできないが、その確率は全力で描いた漫画が金にならない確率よりも遥かに低いw僕はこの事実を判断基準にして「就職」という道を選択した。
世の中には「就職」や「結婚」など、明らかにその後の人生を大きく左右する重要な選択をしなければならない局面で「安定」だとか「甲斐性」だとかいったものを判断の基準にする人がいる。こういう人は、僕よりも遥かに「夢追い人」なのではないだろうか。
「安定」「甲斐性」「一般常識」「道徳」「適齢期」―こういったものには実体性がなく、本当に存在するかどうか疑わしい。国家も科学も資本主義も、性質の悪い宗教の一種だと考えている僕は、このようなあやふやなものは一切信じていない。こんなものを信じるくらいなら「騎士道精神」とか「大和魂」でも信じていた方がよっぽどましだ。「そのほうがカッコいい」という点で優れている。
会社で働いていると、なんだかよくわからない、得体の知れない宗教のようなものを信じて働いている「夢追い人」を多く見かける。「真面目に働かないと罰せられる」と考えている人がものすごく多いのだ。「結果を出さないとクビになる」ならば理解できるが「真面目に働かないと罰せられる」という考え方は全く理解できない。一体誰に罰せられるのだろう?上司だろうか?社長だろうか?そもそもどう働いたら「真面目に働いた」ことになるんだろうか?残業を沢山すれば真面目に働いたことになるのか?効率よく仕事を片付けた方が真面目に働いていることになるのか?そのあたりがはっきりしないのだ。ものすごくあやふやな基準で物事を考え、自らの行動を縛って身動きがとれなくなっている人が無数に存在する。会社というのはそういう人の吹き溜まりみたいな所だ。
このような人々をニヤニヤしながら観察しつつ、日々仕事に励んでいる。
正直、結構楽しい。
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「自分にとって大切なものを意識できる」ということは、バランスのとれた生活を送る上で非常に大切なことである。
社会と関わり、様々な価値観を持った人々と交わる時、知らず知らずのうちにその影響を受ける。その結果、自らの考え方や物事に対する優先順位も変化していく。会社や学校といった、多くの人が集まる場所では、この影響力は非常に大きい。あるコミュニティは必ず特有の性格や価値観を持っている。「社風」や「校風」などという言葉で呼ばれているものがこれにあたる。このようなコミュニティに参加していく時は、どうしてもその影響を大きく受ける。
一方、人間には生まれ持った個性、独特の価値観というものがある。全ての人間は、独特の個性と価値観を持っている。このため、ある人にとって大切なものが、他の人にとって大切であるとは限らない。故に自分にとって何が本当に大切なのか、という事を教えられる他者は存在しない。どんなに尊敬できる両親や教師であっても、それを教える事はできないのである。自分にとって大切なものは、自分で見出すしかないし、自分自身の努力で守り抜くしかない。
社会と関わっていると、日常の緊急的な出来事に振り回されて、自分にとって何が本当に大切なのかという事がわからなくなることがある。こういった、個人の持つ独自の価値観を無視した生活を送っていると、精神のバランスが崩れていく。この崩れは、精神や肉体の健康に大きな影響を与える。精神のバランスが取れていて始めて、人は本来の能力を発揮することができるのである。だから人は、自分にとって大切なものをいつでも意識できるよう、心構えを整えておかなくてはいけない。
1日に10分でもいい。自分にとって本当に大切だと思えることに時間を裂こう。これは意義ある人生を送る上で非常に有効な戦略である。
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「武」というものに、長年強い憧れを抱いている。
僕は運動がからっきし駄目なので、自ら「武」の世界に飛び込むことはなかったが、未だその憧れは覚めやらない。
自らの身体の可能性を追求していくということ。自らの肉体について頭ではなく、体を通して理解を深めていくこと―そこにある喜び・充実感は、どこか表現する事に共通するものがある気がする。
「生き残る」ということは僕にとって、大学を卒業した頃あたりから今に至るまでの、最大のテーマの一つである。言うまでもなく「武」はそれに直結している。人間にとって強さとは何かということを問い続けたという点では、僕も「武」の世界に住む人々と同じ事をしてきたのかもしれない。僕は人生のある時点を過ぎてから、軟弱な自分に嫌気がさし、自らに制約を課すことを矜持として生きてきた。強くあるために、己を高めるためにできることはすべてやろうと心から思った。
今の僕は、いかなる状況においても生き残り続ける自信がある。相変わらず運動はからっきしだから喧嘩は物凄く弱いだろうけど、多分僕は、とてつもなく強い。決して自惚れでなはく、なんとなくそれがわかる。僕の生き方はどこか「武」の世界に住む人達たちのそれに似ていた。ベクトルが違っただけで、同じものを追い求めていたのかもしれない。
いつか、真の「武人」に会ってみたい。格闘家ならば何人か知っているが、彼らは「武人」ではなかった。空手とか、柔道をやっている、喧嘩の強い人達だ。僕は、それは「武」とは違う類のものだと思う。もし彼らと喧嘩したら、100戦して100戦僕の負けだ。けれど、それでも尚僕は自分の強さに対する認識は変わらないだろう。「武」は勝つために身に着ける技術ではないのである。生き残るために、ただそれだけの為に己を高め続ける道こそが「武」の道ではないだろうか。
そういう道を究め尽くした人間に、生涯のどこかで出会い、友達になれたらいいなと思う。
うーんなんか、思い入ればかりが先行してとりとめのない文章になっちゃったね♪
ほいではまた明日ー
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「人間の器」というものについて思索を巡らせてみた。
僕くらいの年になると、自分という人間がどのくらいの存在なのか、おぼろげながらわかってくる(ような気がするだけかもしれないけど。)いっぱしの男子であれば、誰しも10代の頃は世界征服を夢見るものだ。若い男というものは皆、自らを「世界に君臨する英雄の器」と考えている。
だが、年をとってそこそこに人生経験も増えてくると、自分はこの世界でどこまでいけるのかということに、大体の見当がついてくる。(ただし、アドルフ=ヒトラーのような例外もありうる。ヒトラーは30代中盤まで殆どニートのような生活を送っているが、生涯の終盤戦では世界征服に限りなく近い所まで辿り着いた。ブッシュ大統領も例外の一人だ。彼も40代に入るまでニートのような生活を送っている・・・ってあんまりいい例じゃあねえなw)
そこで僕自身の器についてだが、どうもそこまで大きな器でもないらしい。10代の頃は「俺にとっちゃ世界征服くらいの事業は、赤子の手を捻る位カンタンだ」と思い込んでいたし、20代中盤に差し掛かるまでこの傾向は根強く残っていた。が、三十路を間近に迎えて己の器を考えてみるに、どうも世界征服できるような英雄の器は持ち合わせていない。
何故そう思うようになったかというと「人の為に役に立ちたい」という気持ちが一向に起こってこないからである。僕はまったくリーダーには向かない性格をしている。例を挙げると、
■自分の身勝手な行動で誰かが迷惑しても罪悪感が殆ど沸いてこない。
■やりたくないこと、嫌なことは可能な限り回避する。
■ 目上の人間を敬わない。目下の人間が生意気な事を言っても、特に何も感じない。
■面倒見が悪い。困っている後輩を見かけても、特に助けようと思わない。
■自分の利益を最優先に考える。
とこのように、僕という人間は、実に嫌な奴だw 僕のようなタイプがリーダーになると、下の人間に大きな被害を与える羽目になるだろう。このような人間は、下手に野心を抱いては駄目なのかもしれない。少なくとも人の上に立つリーダーの器ではないことは明白である。
それでは僕は、一体何の器だろうと考えてみたとき、
どうやら「道化師の器」なのではないか―
という答えが浮かんだ。「道化師の器」―悲しいかな、しっくりとくる。僕の半生はまさに「道化」のそれであった。世の中に役に立ったことがあるとすれば、人を笑わせたとか、緊張感を解したとかその類のことであろう。僕という存在が世に貢献できる範囲というのは「面白おかしいこと」に留まっている。もしかするとこれが僕という人間の分限なのかもしれない。
これまではそういう自分の性質が嫌で仕方なく、運命を変えようと奮闘に奮闘を重ねてきた。けれど最近は「道化師の器」も捨てたものではないのではないかと思うようになってきている。
「道化」には「道化」の生き様というものがあるのではないか。いっそ僕は「道化」としての道を極めれば良いのではないか―
近頃は、そんなふうに思うようになった。
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寝落ちしてブログが書けなかった。起きてみれば早朝。
何か書こうと思ってネットに繋いでみたものの、書くべきことが見当たらなかった。
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サラリーマン生活にも慣れてきた。特に不満はない。同僚は皆やさしくしてくれるし、仕事にやりがいもある。
だが「生きている」という実感は薄れていっている気がする。
漫画の仕事をしている時は、10000円稼ぐのが至難の技だった。全知全能を賭けて仕事に取り組み、自らの腕を磨き、いつ切られるかわからない出版社とのやり取りにハラハラしつつ生きていた。そんな中で稼ぎ取る10000円には、特別な重みがあった。 会社に勤めてしまうと、椅子に座ってそれなりに仕事をしていれば10000円などすぐに稼げてしまう。失敗しても注意されるだけで、死の危険性は無い。ここではファインプレイをする必要はないのだ。普通に真面目にやっていけば生きていける。
つい一週間前まで常に「死」が念頭にあった。いつ何時、のたれ死んでも後悔しないように、一瞬一瞬をものすごく真剣に生きていた。今の自分にはそういう不安や緊張感がない。会社に顔を出していれば絶対に死なないという、のっぺりとした安心感につつまれて毎日を過ごしている。
職場の同僚は皆とてもいい人達だが、「死」への意識は稀薄だ。今日という一日をただなんとなく過ごしてしまっても「まあ人生なんてこんなもんだ」という感じでやり過ごしている。笑いの耐えない、いい雰囲気の職場だが、死ぬほど面白い事や死ぬほど苦しい事はない。「食堂のご飯が美味しくない」とか「明日は雨だ」とか、日常のささいな出来事の中に楽しみを見つけてのんびりやっている。
僕は心のどこかで「不安」を求めてしまう。強烈な恐怖や極度のプレッシャーといったものが人生にないと、どうも落ち着かない。単なる平和ボケなのかもしれないし、本当の恐怖を味わったらそんな悠長なことは言えなくなるのかもしれないが、そういう度し難い傾向が自分にはある。だったらギャンブルをやればいいのかもしれないが、ギャンブル程度ではやはり、中途半端にしか満たされない気がする。
不安、嫉妬、恐怖、憎悪、苦悩…このような悪感情が渦巻く世界に身を置いていないとどうも調子が出ない。胃がキリキリするようなプレッシャー下に置かれてやっと目が覚めるという感じなのだ。今置かれている状況では悩みようがないし、不安になりようがない。安定した収入、労災、失業保険…何から何まで至れり尽くせりで、怒りや不満の持ちようが無い。今までの理不尽な日常は一体なんだったんだろう。
いつまでサラリーマンを続けられるかはわからない。どこかで「不安」を欲するあまり、飛び出してしまう気がする。とは言え「不安」への渇望が限界に達する時までは、まだまだ時間がありそうだ。
もう少し、このぬるま湯を楽しんでおこうと思う。
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毎日仕事に行っているので、ブログの内容が仕事の話ばかりになる。自分のブログはテーマがころころ変わるのが問題だと常々思っていたが、思っても見なかった方向で解決された。
しかし、いざテーマが絞られてくると、マンネリが心配になってきたりする…w何か、毎日同じような事を書いているような気がするんだが、大丈夫なんだろうか・・・
まあ、爆発的に面白いネタを振る趣旨のブログではないので、のんびりやることにしよう。
さて今日は「アリ型人間」について書きたいと思う。
会社に就職して、久しぶりに「アリ型人間」に接する機会ができた。人間は大別して「アリ型」と「キリギリス型」の2つに分ける事ができる。アリ型人間は仕事が正確である。上司の指示に素直に従い、言われたことをきちんと遂行できる。その上どれだけ単純作業が続いても飽きることがなく、不平も不満も洩らさずに黙々と仕事をし続ける。これがアリ型人間の強みである。
俺のようなキリギリス型人間からすると、アリ型人間の仕事ぶりは驚異そのものである。どうしたらあんなに正確に仕事ができるようになるのか、俺には想像もつかない。アリ型人間はミスをしないし、仕事に飽きることも無い。恐らく、変化に対する感受性がとても敏感なのであろう。日常のわずかな出来事に驚きを覚えられるから、退屈してしまうことがないのではないだろうか。
会社という組織の中でのアリ型人間の強さには舌を巻かざるを得ない。キリギリス型人間は仕事を覚えてしまうとすぐに飽きてしまい、集中力が低下してミスが増える。俺のようなキリギリス型人間は、新しい技術に挑戦し続けないとモチベーションが続かないので、一生学び続け、生きていくフィールドを変化させ続けるしかない。
こういう傾向は、漫画や小説を書いたり音楽をやる上ではこの上なく有効だが、会社での仕事となると、どうしてもアリ型人間に一歩劣ってしまう。会社のような閉鎖環境の中では、やらなければいけないことは限定されている。このような状況下では、応用力やアイデア力よりも、マニュアルに忠実に従い続ける力の方が有利に働くことが多いのである。集団を指揮する立場にある人間からすれば、自分の予測できない動きをする人間よりも、指示にきっちりと従ってくれる人間の方がありがたいに決まっている。
キリギリス型の俺が、アリ型人間と共に仕事をしていく上で、足を引っ張らないようにする為にはやはり工夫し続けるしかないだろう。どう努力してもミスのなさ、退屈することのなさではアリ型人間に劣ってしまう。少々はた迷惑ではあるものの、変化球を投げ続けるしかない。
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会社での仕事を、割と楽しんでいる。
日々仕事を学んでいくことは楽しいことだ。IT業界には、働ければ働くほどコンピューターというものについての知識が深まっていくという面白さがある。組織がプロジェクトをどのように処理していくかということも、少しずつわかってきた。膨大なタスクに自分の予定を狂わされなければ、決して悪い仕事ではない。
ひとつ気になるのは、俺の仕事に対するモチベーションは「学ぶこと」に依存しているという事だ。組織や消費者に貢献することよりも、自らが知識や技術、経験を得ていくことの方で充実感を感じてしまう。このスタンスだと、現在の仕事についての完全な理解が得られた時、モチベーションが完全に消滅してしまうだろう。現在の部署の仕事は、恐らく1年程度で理解が完了する。その時までに部署を転属にならないと、辞めてしまう危険性が高い。
組織における仕事では、ある部署に一定期間いると、自動的ににその部署内での責任者の役割を任されることが多い。IT業界(あと外食産業もそう)では、前任の管理者が辞めていくか、部署転換になることでリーダーが交代すると思われる。俺は、責任者としての喜びを感じる事は恐らく今後もないだろうと思われるので、このような立場に自分が立たされた時は「転職」という決断を下さざるを得ない。
今の時点では、下っ端のままあらゆる部署を転々としてみたいと感じる。このスタイルだと長い間同じ部署にいる事で産まれる「居心地の良さ」は産まれないが、常に新しい知識を吸収し続けることができる。その代わり、責任者として苦しい立場に立たされることはないので人格的な成長はないだろう。俺は「それでも良い」と思う。この生き方は最も安易で、厳しい仕事から逃げ続ける生き方なのかもしれないが、自分の求道的な性格には合っている気がする。
自らを犠牲にして組織やコミュニティの利益の為に頑張る人―会社の部署のリーダーや、学校のサークル活動の部長、大家族の母親などといった人たち―は本当に凄いと思う。人として、一番厳しい道を選択しているのはこういう人たちだ。まったくもって頭が下がる思いである。俺など、気がつけばいつも自分の利益ばかりを追求している。
俺は「自分の利益を優先することで組織やコミュニティが害を被っても別に構わない」と思ってしまうし「自分が子供を作らないこと少子化に拍車をかけ、結果国家の衰退に加担してしまっても別に構わない」と思ってしまう。「国家や後の世代がどうなっても自分には関係ない。ともかく自分の幸せだけが大切だ」と考える冷たさが、心の根底にあることを認識している。それを認識した上で良心の呵責は殆ど感じないし、改善する気も無い。
「他人の幸福にまでは手が回らない。自分自身のの生きている充実感を守ることで精一杯」
というのが、今の俺の器なのかもしれない。
少し寂しい気もするが、それが天分であればしょうがない。
IT企業で働き初めた。俺が配属されたのは、膨大がタスクが蓄積した最前線の部署である。この経験を通じてひとつわかった事がある。それは、
「いかなる状況に置かれても、残業を回避する事は可能だ。」
ということだ。強い意志と、同僚に迷惑をかけても良心が微塵にも痛まない冷徹な精神があれば残業は必ず回避できる。
サラリーマンが残業するのは「帰れないから」ではない。「帰れる雰囲気じゃないから」である。進行管理責任者はプロジェクトの遅延に胃を痛めている。プロジェクトリーダーは「もう嫌だ!」と悲鳴を上げている。そして、同僚の誰も仕事場を離れる気配がない。
要は、その状況で帰れるかどうかだ。
目の前に積み上げられた仕事を放棄し、自分だけがいそいそと帰宅すれば仲間の信頼を失っていくであろう。次第に自分に割り当てられる仕事が少なくなり、周囲からは「役立たず」「無能」と見做される。
要は、それでも帰れるかどうかだ。
結局のところ優先順位の問題なのだ。己の自由と仲間との信頼を天秤にかけたとき、どちらが大切かという事だ。実際に会社で働き、残業も経験してみて、それがわかった。本当のところ、残業は決して苦痛なだけではない。膨大に積み上げられたタスクを敵に見立て、職場の仲間と力を合わせて戦っていく。自らの自由を犠牲にすることで産まれる連帯感、暖かさ…残業に身を投じるサラリーマン達からはそういった「陶酔」が感じられた。
定時を過ぎた職場には不思議な「ぬくもり」がある。それは締切前の漫画家がアシスタントと過ごす時に感じる「ぬくもり」と同種のものであり、イベント入稿締切直前に同人作家が友達に手伝って貰って徹夜で原稿を描きあげる感覚と同種のものだ。
言うなればそれは「修羅場」の持つぬくもりである。「修羅場」を共に体験した者同士の間には、不思議な連帯感が生まれる。その連帯感が産み出す「ぬくもり」が欲しくて皆残業が止められないのだ。
俺は「だから残業をする奴は無能だ。残業なんてするべきじゃない」と言いたいのではない。残業をする事は、決して悪いことではないと思う。だが「残業は必ず回避できる」という事だけは念頭に置いて仕事に当たった方が、精神衛生上良いと思うのである。残業するかしないかは、個人の自由に任されている。それでも人が残業を止めないのは、連帯感のぬくもりを感じ続けたいからだ。それを自由よりも大切に思っているから、プライベートの時間を犠牲にしてまで残業をするのだ。
少なくとも「全ては自らの選択だ」と認識していた方が、運命に翻弄されていることを嘆くよりも遥かに生産的であることは間違いない。
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文学賞に出してたけどおっこちてしまったのでネットに発表♪
傑作です、暇な時にでも読んでくださいなー
http://
以下落っこちた感想&自分の小説に対するスタンスなどをつらつらと書きまーすw
正直とても悔しい。当時自分ができることは全部やったので、きちんと評価して欲しかった。この作品は世に出さなければいけない必然性があると今でも信じている。故に、それを見抜けなかった審査員は無能だと考える。小説作品はまだ5作しか作ったことがない為、文章回しは下手糞だが、そんなものは書いてればすぐに上手くなるのである。卑しくもプロなら小手先の技術より、作品に秘められた本質を見抜けと声を大にして言いたい。
要するに、
「何故僕のゲージュツが理解できないのだ?それはきっと君達が才能の欠片もない凡人だからだろう。まあそれはそれでしょうがないから、僕の方で勝手に発表させて頂くよ。あとで後悔しても知らないぞ♪」
と言う事が言いたいのだ。「俺様は正しい、お前たちが間違っている」と、つまりはそういう事だ。こういう事を言える人間は最近の日本では僕くらいしかいないので、発表ついで言いたい放題書かせて頂く。
僕はこと小説作品に関しては誰の意見も聞こうとは思わないし、読者を喜ばせようとも思っていない。自分が面白いと思うものを真心を込めて書くだけだ。そこに自分以外の誰の意思も介在させたくない。
謙虚さは小説の敵である。他人の意見を取り入れて、カスタマーライクな作品を書く位ならリーマンでもやってた方がよっぽどマシだ。僕は他の誰の為にも小説を書かない。ただただ、自分の為だけに小説を書いている。これが小説を書く上での正攻法だと思う。これ以外に、傑作を作り出す方法はないと心から信じている。
こういう事を書くと、必ず「趣味ならそれでもいいけどね」と言う人がいるが、僕は小説を「趣味」では書いていない。
「仕事」=人のニーズを意識したモノ作り
「趣味」=自分のニーズだけを考えたモノ作り
という安易なロジックは大嫌いだ。そんな居直りを決め込んだ考え方をしている奴に良いものは絶対に作れない。僕が小説を書く理由はただひとつ、天から「小説を書け」と命じられたからだ。つまりこれは僕の使命である。使命は仕事よりも遥かに尊い。僕はその使命の為に生きている。サラリーマンとなった今も、この認識は変えるつもりはない。
後悔しても構わない。友達を無くしても構わない。叩かれても構わない。キチガイだと思われても構わないし、精神病患者だと思われても一向に構わない。「あの頃は青かった」と身悶えするような思い出、消したなる過去は、多ければ多いほど良いのだ。
それら全ての痛みを受け入れて、このスタンスで書き続けようと思う。
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仕事が始まってから、目が回るような忙しさだ。決してつまらない仕事ではないが、楽ではない。やりがいはあるし、楽しいが、自分に向いているかどうかはわからない。
働く前は、組織での集団作業に大きな抵抗があったが、実際に働いてみるとそこは難なくクリアできた気がする。俺が協調性に欠けているのは、あくまで創作活動の範囲内であるようだ。仕事場に出てしまうと、意外に適応力があった。
それよりも単純に、仕事のクオリティを要求されている水準まで高められるかどうかが問題だ。会社組織では「仕様に従った、ミスのない仕事」が要求される。俺は自分の長所は創造性にしかないと考えているし、創造性を高める訓練ばかりを自分に課してきた。自分のニーズに答えるためには全集中力をもって事に当たれるが、組織の要求に答える力は人並み以下である。
今後の努力によって組織貢献型の力がついてくればよし、それが駄目なら個性をいかして組織に貢献できればよし。それも駄目なら辞めればよし。どちらに転んでも問題はなしだ。
当分はこの仕事に飽きる気配がないので、続けていこうと思う。
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IT企業での労働1週間で考えたことをつらつらと。
一番思ったのは、開発部門と評価部門の間に存在する「溝」について。
プロジェクトが遅滞するのは主に部門間でのコミニュケーション不足が原因だと思った。開発は、評価に対し、どのような検査成績書が必要とされているのかを明確に伝える必要がある。その為には、ただ検査仕様書を書くだけでは駄目だろう。評価作業は仕様書の解釈によって、無限に精密に行うことができるからだ。評価部門においてタスクが膨大に発生するのは、マニュアルに忠実に従い過ぎることで、開発部門に必要とされていないフィードバックを返していることが最大の原因だと思う。
クイック検査と精密検査が本来の意味で十分に機能していれば、ソフトウェア開発の効率はもっと上げられる。ただ正確に行うというだけではなくて、現在開発が必要としているレベルの精密さで迅速に評価を行っていき、段階的に検査を精密にしていけば発生するタスクは何十分の一にまで抑えられると思う。
これができないのは、開発の人間は評価の現場を理解しておらず、評価の人間は開発のプロセスを理解していないからだ。ここまで専門化、分業化が進んでしまうと、生産性は逆に低下する。理想的には、どちらのスタッフも、両部門について必要最小限度の知識を備えているべきだ。それが無理ならば、とにかく密にコミニュケーションを取り合うことが非常に重要になってくる。
ソフトウェア開発といえど、最後は人間関係だなあと、切実に思った。
と、偉そうなこと言ってみる。まだ半人前にも仕事ができず、足を引っ張ってるけれどww
早く役に立てるようになりたいなー
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4月からIT企業で働いている。
会社という組織には「守秘義務」というものがあり、うかつに機密を洩らすと罷免されるだけでなく、多額の賠償責任を負わされる事もあるとの事だ。
なんでもかんでも書いてしまう習性がある俺にとっては実に恐ろしい義務である。よって会社生活に関しては細心の注意を払い、機密とは関係のない事を論じていこうと思う。
膨大なタスクを抱えた部署に配属となった。新卒の社員達は研修を経て部署に配属となるが、会社員見習いの俺は研修も何もなく、入社して一日目から最前線の現場に飛ばされて労働となった。プロジェクトマネージャーは上から降りてくるタスクの多さに頭を抱え、胃を痛めている。
スタッフは全員優秀で、やる気のある人間ばかりだ。職場の空気も悪くない。が、決して残業は無くならない。上から無限に仕事が降ってくるからだ。定時を過ぎても皆、当たり前のように仕事を続けている。製品が完成に至るまで、彼らに安息の日々は無い。
この条件下で、俺は「残業はしない」という方向性を貫いてみることにした。一緒に仕事をしているスタッフには悪いが【家族>会社での仕事】という優先順位は俺の中で変わりようがないからだ。残念ながら、今回のプロジェクトでは100%残業を回避することは不可能であるため、毎日プロジェクトマネージャーとの交渉になる。
プロマネは泣きそうな顔をしながらも、とりあえずはこの方向性を認めてくれた。残業嫌いの俺もさすがに折れ、週一回だけは残業することになった。
月の残業時間を30時間以内に収める方向性でいきたい。スタッフとのコミニュケーションを徹底し、作業の生産性を高めていけばこの目標は決して無理ではないように思う。
それはそうとして、肝心の作業がヒヨっ子だから頑張らなきゃいかんのだけれども。。。
早く仕事を覚えて周囲に迷惑をかけないようにはしたいと思う。
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今、この瞬間に対応した動き。
それは「今」という瞬間に心を開いていかなければ出てこない。
「今」という瞬間に心を開き、情報を精神に取り入れていく時、自分の中から全く新しいものが出てくる。そういうものがとても大切だ。
けれども、ただ状況に流されるだけの人間になってはいけない。「今」に対応していくことと、状況に流されることの違いはものすごく微妙だ。通すべきものは通すと決めた上で「今」に対応していく。それが人生における幸福を左右する。
「こうと決めたことを曲げない」だけでは駄目だ。こういう生き方は脆い。あちらこちらで破綻をきたしてしまう。それはやはり、自然界の法則に反した生き方なのだ。
曲がっているようで曲がっていない。矛盾しているようで矛盾していない。そういうスタンスが大切なのだろう。
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